『セブン』──美しさと狂気、そして現実

作品情報
- 製作年
- 1995年
- 監督
- デヴィッド・フィンチャー
- 出演
- モーガン・フリーマン、ブラッド・ピット、グウィネス・パルトロー
この映画は、その映像美とグロテスクさ、細部まで作り込まれた演出によって、観る者に常に緊張感を与える。 時折、緩和の瞬間を挟みながらも、その緩急によって観客はより一層画面に引き込まれていく。
エンドロールが流れる間、私はしばし呆然とし、まるで魂が抜けるような感覚を覚えた。 予測不能な展開、そして現実味を帯びた狂気的な事件の数々が、私の精神を揺さぶった。
デヴィッド・フィンチャー監督の作品はこれまでもいくつか観てきたが、 直近では 『ファイト・クラブ』(1999年)の暴力性とストーリー展開に驚かされた。 そして何より、ブラッド・ピットのカリスマ性に惹かれた。 そんな彼が主演するフィンチャー監督の長編第2作『セブン』には、当然のように興味を持った。
あらすじ
雨の降りしきる大都会。ある日、新たな猟奇殺人事件が発生する。 退職を間近に控えたベテラン刑事サマセット(モーガン・フリーマン)と、 血気盛んな新人刑事ミルズ(ブラッド・ピット)は、現場へと急行した。
被害者は、極度に肥満した男。顔を食べ物に埋めたまま絶命しており、 死因は食物の大量摂取による内臓破裂。後頭部には銃口の痕があり、 何者かによって死ぬまで食べ続けるよう強要されたことが判明した。 そして、現場には「GLUTTONY(大食)」と書かれた文字が残されていた。
まもなく、次の殺人が発生する。犠牲者は著名な弁護士グールド。 彼は高級オフィスの一室で血まみれの状態で発見され、 壁には「GREED(強欲)」と血で記されていた。
サマセットは、犯人がキリスト教の「七つの大罪」 (憤怒・嫉妬・高慢・肉欲・怠惰・強欲・大食)に基づいて殺人を犯していることに気づく。 そしてミルズに「あと5人、殺されるだろう」と警告する。 (※引用元:『キネマ旬報web』)

魅力と衝撃
この映画の面白さは、序盤ではテーマや今後の展開が全く読めない点にある。 通常の作品であれば、ハッピーエンドかバッドエンドか予測はつかなとくとも、ストーリーの流れやその結末の選択肢は予測がつくものだ。 しかし『セブン』は最後の最後まで先が見えなかった。
鼓動が高鳴るまま、クライマックスを迎えた後も、私はモヤモヤすることも、 スッキリすることもなかった。しかし、妙に不自然さを感じることもなく、 ただただ緊張感の余韻に包まれながら画面を見つめ続けていた。 不思議であり、凄まじい映画だった。
普段、映画を観終わった後は「あのシーンの真相は?」「実はこうだったのでは?」と 考えを巡らせることが多い。しかし、本作では驚くほど素直に物語を受け止め、 クライマックスを頭の中で咀嚼することができた。それほどまでに強烈な作品だったのだ。
それぞれの事件やその情景は精巧に作り込まれており、観る者を引き込む。粗削りな描写や揺れるカメラワークも、私の心を大きく揺さぶるのだ。 それほどまでに、この映画の演出は巧みであり、観る者の想像力をかき立てるものだった。

七つの大罪
この映画に描かれる事件は、現実世界でも起こり得るのだろうか。まずは、物語の軸となる「七つの大罪」に焦点を当てよう。 「七つの大罪」は、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの 著作に登場した「八つの枢要罪」に起源を持つとされる。
八つの想念
- 貪食
- 淫蕩
- 金銭欲
- 悲嘆(心痛)
- 怒り
- アケーディア(嫌気、霊的怠惰)
- 虚栄心(自惚れ)
- 傲慢
その後5世紀の初め(420年頃-430年頃)にカッシヌアスが「八つの主要な悪徳」としてラテン語世界へ伝え6世紀後半には、グレゴリウス1世(540年頃-604年)がその内の「高慢」をすべての悪の根として別格扱いとし一覧から外し...といったように今に至るまで様々な変遷を辿っているようだ。 そして、本作中でも言及されていた新曲には中世のキリスト教の世界観が分かりやすく反映されている。
ダンテの『神曲』における煉獄山の構造(wikiより)
『神曲』は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。
地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩である。(時間があれば読んでみたいものだ。)
そして煉獄篇に登場する亡者は煉獄山の各階梯で生前になした罪を浄めつつ上へ上へと登り、浄め終えるとやがては天国に到達する。以下の階層に分かれており、七つの大罪を克服するための場のようになっている。
▶ 煉獄の入口
- 煉獄前域 - 煉獄山の麓。小カトがここに運ばれる死者を見張る。
- 第一の台地:破門者 - 教会から破門された者は、臨終において悔い改めても、煉獄山の最外部から贖罪の道に就く。
- 第二の台地:遅悔者 - 信仰を怠って生前の悔悟が遅く、臨終に際してようやく悔悟に達した者はここから登る。
- ペテロの門 - 煉獄山の入口。それぞれに色の異なる三段の階段を上り、金と銀の鍵をもって扉を押し開く。
▶ 七つの罪の冠(テラス)
- 第一冠:高慢者 - 生前、高慢の性を持った者が重い石を背負い、腰を折り曲げる。ダンテ自身はここに来ることになるだろうと述べている。
- 第二冠:嫉妬者 - 嫉妬に身を焦がした者が、瞼を縫い止められ、盲人のごとくなる。
- 第三冠:憤怒者 - 憤怒を悔悟した者が、朦朦たる煙の中で祈りを発する。
- 第四冠:怠惰者 - 怠惰に日々を過ごした者が、ひたすらこの冠を走り回り、煉獄山を周回する。
- 第五冠:貪欲者 - 生前欲深かった者が、五体を地に伏して嘆き悲しみ、欲望を消滅させる。
- 第六冠:暴食者 - 暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制する。
- 第七冠:愛欲者 - 不純な色欲に耽った者が互いに走りきたり、抱擁を交わして罪を悔い改める。
▶ 煉獄山の頂上
- 山頂:地上楽園 - 常春の楽園。煉獄で最も天国に近い場所で、かつて人間が黄金時代に住んでいたとされる。
このように、七つの大罪はさまざまな場所で色濃く反映されており、昔の人々にとってはより身近で重要な概念だったのではないだろうか。 また、現代においてこれらの罪を振り返ると、ふと気を付けようと思うこともある。4世紀あたりの世界は、恐らく法律や規範が現代ほど整備されていなかったのだろう。 だからこそ、人々は自らの行いを振り返り、罪を悔い改めることが重要だったのかもしれない。 余談だが、2008年、ローマ教皇庁が発表した新たな「七つの大罪」というのもあるそうだ。
2008年、ローマ教皇庁が発表した新たな「七つの大罪」
- 遺伝子改造
- 人体実験
- 環境汚染
- 社会的不公正
- 貧困
- 過度な富の所有
- 麻薬中毒
従来の「七つの大罪」はより人間の本質に根ざしているが、 新たなものは社会的な問題意識を強く反映しているように感じる。

現実との対比
「事実は小説より奇なり」と言うが、私たちが生きる現実世界は、 映画の登場人物たちが暮らす世界よりも、はるかに奇妙で恐ろしいものではないだろうか。 歴史を振り返ると、人間は欲望に溺れ、堕落し、破滅してきた。 インターネットを始めとしたテクノロジーの発展によって、かつての「七つの大罪」は形を変え、より可視化されているようにも思う。 必要のない嫉妬や憤怒、強欲が、人々の間で増幅されているのではないか。ありのままに生きればよいのに、他人と比較してしまったり攻撃されたり、自分を受け入れることが難しくなっているようにも思う。 そんな時代だからこそ、何もしない時間を作ったり、本を読んだり散歩をしたりとアナログの世界を楽しむのもよいだろう。そして趣味に没頭したり、自分の心に素直になることも大切だ。
この映画では、七つの大罪が極端な形で表現されているが、 その描写は驚くほど美しく、観る者の心に深く刻まれる。 犯人は、現代社会の矛盾を体現する存在のようにも感じられる。

映画の背景
本作の脚本を手がけたアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは、 当時ニューヨークのタワーレコードで働きながら、映画業界入りを夢見ていたという。 彼は、都市に充満する怒りやモラルの低下、人々の小さな罪を見て見ぬふりする社会への 鬱憤を本作に込めた。
この混沌とした現代にこそ、一度は観るべき作品だろう。 『セブン』は、人間の美しさと醜さを浮き彫りにし、観る者に強烈な気づきを与える。
「ヘミングウェイはこう書いている。『世の中は美しい、戦う価値がある』──後半の部分には賛成だ。」
この言葉の意味が、今なら少しだけ理解できる気がする。 世界は必ずしも美しくはない。しかし、たとえ一瞬でも、誰かの笑顔や小さな幸せがあるのなら、 そのために戦う価値はあるのではないだろうか。